タイトル通りです。ゼノブレイド3はお行儀がよくなってしまった結果、ストーリーとしての厚みがあまりなかった。それが本作の欠点だろうと思います。
いやね、他にもあるんですよ。例えば戦闘のわちゃわちゃ感。あれはあれで悪くはなかったんですが、何してるかめっちゃ分かりづらいんですよね。でも、シリーズ通した中では悪くはないと思います。個人的にはDEと2よりは好きです。どっちも全然楽しくなかった。それに比べたら、悪くないかな、と思うだけマシです。悪いなかでの比べ方にはなってしまいますが、でもそもそも戦闘面白くないという土俵なんでしょうがないですね。あとは、チェインアタックがちょっと強すぎたかなという点。うまくやるとこれだけで戦闘が終わってしまうというのが、良い点であり悪い点でもある。まぁ戦闘に関しては今回メインで語りたいことじゃないのでこの辺りにしておきましょう。
さて、お行儀がいいゲーム、と書きましたが、本作は本当にお行儀がいい作品です。主人公のノア一行たちは、悲惨な世界観の割には真っ直ぐ育っていて、とにかくお行儀がいい。いろんなことに目を配れるし、それで世界も救ってしまう。
もちろん、それに対するカウンターが用意されていないわけじゃないんです。シャナイアの存在はまさしくそうでしょう。あとはヨランとかも。でも、正直あそこらへんの展開、勢いでなんとかなってる感というか、ヨランが感じていたトリへの渇望――自身がミミズであるということに対する回答としては、はっきりいってごまかし以外のなにものでもないでしょう。
それで救われる人もいるかもしれません。けれど、あの程度で救われるのは、やはりお行儀がいいと感じてしまいますし、そうしたことでお話のバランス感覚を多少保とうとしていたのかもしれませんが、むしろそのお行儀のよさ・バランス感覚のよさのせいで余計なことに気が割かれてしまいます。
ゼノブレイド3の世界では、成人を迎えさえしなければ輪廻ができるんです。それをまた生きるとおくか、また死ななければならないとおくかは世界観の違いですが、ちなみにインドではまた死ぬと考えたりするタイプの輪廻転生で、日本は中国からの由来となっているので多少インドのものとは異なっています。ともあれ、輪廻に関しても、また行きられると捉えるのか、あるいはまた死ぬのか、みたいに掘り下げてみたら、ノアたちの行動原理にもまた一つ別の意味が付加できたかもしれませんが、はてさて。
また、全体的にいろいろなことを、つまり反論を予想されるようなキャラが先にでてきてしまって、それ自体としてはいいことだと思います。ペルソナ5なんかはそういうキャラがでてこないせいで面白みのないストーリーになっていましたし。でも、でてきたらでてきたで、なんかなぁ、と思わされてしまいました。主人公たちがあまりにも強すぎて、というかノアとミオが強すぎるんですよね。ヨランはミミズだから以外にも、あまりにもノアが強すぎることへの劣等感って絶対あるんですよね。
高潔・高邁すぎる人は、たしかに人望はあるかもしれないけれど、それと同時に、そうなれないという現実をまざまざと見せつけられるはずなんです。そこに対して憧れと同時に屈折した気持ちを抱くのはそう理解が難しいことではないでしょう。セナなんかは、本当はその気持はもっと分かるはずなんです。セナにその役割を持たせてもよかったのかなーって思います。ヨランの気持ちに寄り添ってあげるアグヌス陣営という構図にもできましたしね。
登場キャラクターたちが全員、強すぎるのってやっぱり見てて気持ちが動かされづらいんです。いやね、そうしたキャラがいること自体は良いんです。ノアくんもミオが囚われたタイミングでは多少人間らしさを見せていましたが、でも、それくらいです。そこ以外のノアはあまりにも強すぎてしまった。それこそ誰も近づけないほどにけだかすぎてしまった。まさに孤高の人です。
仲間割れみたいなシーンが多少でもあればよかったんですが、それもなかった。批判されるであろう内容は、口では言わせるんですよ、シナリオ上で。シャナイアやヨランのように。あるいはNもそうでしょう。けれど、結局Mはノアたちの手助けをした。Nの苦悩を誰よりも知っていたからこそ、というのも分かるは分かるんですが、そうしたらミオの体を借りてでもMにけじめをつけさせるべきだったとも思います。あれではノアたちが尻拭いしたのと変わりありませんからね。
ゼノブレイド3、やりたいことは分かるし、どうしてお行儀がよくなったのかも分かるんです。それだけに惜しいなと思わされます。昨今ではポリコレだなんだと色々問題があって、様々なことに目配りをしなければならない世の中になっていると思います。ヒカキンがスプラプレイ中に肌色と言った、みたいなのがネットニュースになる世の中です。僕がその世界を受け入れられないのは、僕に多様性のものさしがないからなのか、あるいは差別的な人間だからなのか。
配慮が物語を面白くしてくれるなら、僕は大賛成です。けれど、今のところつまらなくするものはあっても面白くできてる作品はないように思えます。それはお前がマジョリティ側だからだろう、という意見も容易に想像できますが、そもそも、全ての人間に対して心地のいいものを作るなんてことは不可能なわけなんですよね。
別に敢えて差別的な表現にする必要もないと思いますが、例えば美人をださないとかになれば、それは逆に美人に対する差別なんじゃないか。なにかを優遇したとき、優遇そのものが差別になる。もちろん、冷遇それ自体も差別であるのは間違いありません。
けれど、バランス感覚の”良さ”、お行儀のいい作品というのは、むしろそれ自体差別的であるとみなすことも可能になってしまい、結局世の中なにをしたって問題が生まれてしまいます。だいたい最近では誰も傷つかない笑い、とかも流行っていますが、そもそも「おかしい」という言葉から考えてみてもらいたいですよね。おかしいはたしかに「可笑しい」と表現することもありますが、他人に対しておかしいと非難する言葉としても使います。
これが面白い、というニュアンスを含むということは、笑いとは潜在的な差別が含まれているわけです。つまり、普通にたいするおかしさ、という。きんに君だって、ヤーといいながらチーズを全部ミートソースに、しかもかけられないというおかしさ。このおかしさというのも、面白いという意味でありながらも、そんな事する人いないよ、というおかしさも含まれています。笑いというのは差異を、おかしさを強調するものであり、誰も傷つかない笑いなんてものもその本質は差別的なものです。
ゼノブレイド3の話から脱線してしまいました。もう特に語りたいことはないので終わらせます。終わらせるよ。